なるほど、と思うことしきり。 ネガティブとポジティブは表裏一体だったな、 なんて当たり前のことに気付く。 視点を変えれば、視界を広げれば、 僕らの世界は全く姿を変えるのでしょう。
---------------------------------------- 冷泉彰彦: 著書に 『9・11(セプテンバー・イレブンス)―あの日からアメリカ人の心はどう変わったか』 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4093860920/jmm05-22 -- 私はアメリカの「ヒト」に関する心配性は、基本的にヒトに対する開放的な姿勢の反動だと思います。基本的にヒトを信じてヒトを受け入れてきたアメリカ、むしろタテマエとして他国のヒトを受け入れてきたアメリカは、時々ヒステリックにヒトを疑い出すのでしょう。そんな、アメリカの社会にとってヒトへの心配性は一時の現象だと思います。
これに対して、日本の心配性は心理的いや感情的なものも含めて、理由がある、つまり人類の生存本能が自然に警戒心を発揮させている避けられない現象のように思います。勿論、排外主義が絡んで合理性を失っては危険なのでますが、基本的には「心配をして当然なこと」を「見事にしつこく心配する」のが日本文化なのだと言えるのでしょう。
BSE、各種の感染症、地球温暖化、化石燃料の枯渇など、様々な問題に関する日本人ならではの心配性は、実は世界に貢献できる立派な嗅覚、つまり生存を脅かす危険に対する回避本能なのだと思います。見事なまでに心配できる才能を誇りに思って、その心配性文化ゆえの危険低減技術を世界に輸出する、安全基準の世界標準をまとめる輪の中心にいつもいる、そんな気概があっても良いように思います。
心配だという直感を大事にしながら、本当のリスク評価とその回避策を提案し続ける、日本の新たな産業の柱はそんな発想法の中から見えてくるのかも知れません。日本文化のブームを受けて、アジアやアメリカでは大勢の若者が日本語や日本文化を学んでいます。そんな人々の中からも、日本の心配性文化への応援団が出てきて欲しいものです。 |
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